3年に一度、イスラエルのテルアビブで開かれる「ルービンシュタイン国際ピアノコンクール」。14回を数えた2014年の決勝で、事件が起きた。
コンクールでは通常、複数メーカーの「公式ピアノ」が採用され、奏者はその中から好きなモノを選ぶ。いずれのコンクールでも選ばれるのは「スタインウェイ&サンズ」。米国の有力ブランドで、ピアニストも同社製で習い育つケースが圧倒的に多い。ところが、昨年のルービンシュタインでは、ファイナリスト6人のうち5人が「スタインウェイ」ではなく、「ファツィオリ」を選んだ。イタリア北部の小さな街の、手作りメーカーのピアノだ。
ピアノメーカーは100年を超える歴史を持つ老舗がほとんどだが、ファツィオリの創業は1981年。率いるのは、工学と音楽の両方で学位を取った異色の経営者、パオロ・ファツィオリだ。実家はもともと家具メーカー。大学では家業を継ぐため、工学を学んだ。6歳から、ピアノも続けていた。
「二重の専攻は大変でした。でも純粋にピアノへの情熱があったからこそできた」
一つの疑問がわいた。ピアノはイタリア発祥のはずが、業界は米国やドイツのメーカーが席巻している。楽器自体の「変化」も少ない。
「100年変わらないピアノなんておかしい。聴き方も変わっているのだから進化しないと」
目指したのは、一つ一つの音がクリアな「オペラの歌声」のような音色。家具工場の一角でピアノ作りを始めた。
「ピアノとは、創作とデザイン、製造という人間の素晴らしい『英知』の芸術が、音を認識する『感性』と出合う場所。成功を支えたのは自分の内なる哲学と創造性ですが、二重の勉学の結果が私のビジネスのあらゆる面に生きている」
理論的・科学的に改良
駆使する「英知」に、工学士とピアニスト、両方のバックグラウンドが見え隠れする。
木材の乾燥に温風は使わない。自然乾燥させ、完成までに3年をかける。理想の音色に近づけようと、ある工程では気圧を調整した空間で作業する。ファツィオリ独特の製法で、いわゆる「企業秘密」だ。常に実験を重ね、設計自体から見直し続けるのもパオロの流儀だ。最後は必ず自分自身が弾いて、仕上がりをチェックする。
約40人の職人で生産できるのは年に最大120台。
ファツィオリ日本総代理店を営むアレック・ワイルさん(60)はそのピアノ作りについて、こう説明する。
「スタインウェイをまねた音色が多い中、パオロは自分の頭の中にある夢の音を実現させようとしている」
同社調律師の越智晃さん(42)は、こう話す。
「どうすれば目指す音がでるのか、理論的・科学的に材料やその削り方を変え、改良を重ねている」
異なる知識や経験を併せ持ち、それを融合させた思考を自ら実践する効果について、パオロ自身はどう考えているのか。
「理系や人文科学系の学問の二重の専攻の組み合わせは無数にあるでしょう。人類の知識は膨大で、私たちは誰しもその一部にしか達することができません。1千回生きてもすべてを知るのは無理です。ただ全力を尽くして知識を増やすと、最も重要で、予想もできなかった結果を得ることができるのです」